谷戸の女(続・八王子)前編

川奈まり子
「オトキジ」怪談連載March 26, 2021

作・川奈まり子

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【音と一緒に楽しむ怪談】

【物語の途中には、川奈さんによるコメント音声声優による朗読、そして後編の最後には 八王子の郷土史家へのインタビュー音声 があります。ぜひ最後までお聴き下さい。

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 私が育った片倉の家のそばには漏斗状の谷があり、昼もなお仄暗い谷底を清らかな小川が流れていた。そうかと思えば、家の正面の土地はけわしく隆起して丘を成し、尾根が北の方へ長く伸びていたが、尾根の両側は急峻な傾斜地で、そこにもまた谷があった。

 このように谷と丘陵が入り組んだ地形を谷戸という。

 傾斜に挟まれた谷そのものを、谷戸または谷津と呼ぶこともある。

 一九七七年に私たち一家が八王子に住むようになった当時は、住宅地は今ほど拡がっておらず、大地は削られながらも方々に天然の姿を留めていた。

 幾重にも襞を成す丘と谷と――家の前にそびえる大塚山、これを尾根伝いに南へ向かった先は鑓水という所で、ここには六つも谷戸があった。

 鑓水地域の面積は三キロ四方少々。これがほとんど谷戸で占められ、平地は僅かで、いたるところで土地が隆起したり窪んだりしている。谷は、ところどころで切り立った崖を形作り、永遠に乾きそうもない泥濘を底にわだかまらせたり、近くの川に続く小流れをチロチロと光らせたりしていた。現在では湿地や小川はだいぶ埋め立てられてしまったようだが、水が豊富な土地であることが地名の由来になっている。

 そうした鑓水の谷戸のうちのひとつ、「嫁入り谷戸」には、こんな言い伝えがある。


 この谷戸の人々は、谷底に痩せた田圃を貼りつかせて細々と生計を立てていたのだが、とある年、春のいつからか其処へ、夜毎、ひとりの巫女が現れるようになった。

 澄んだ鈴の音が静寂に鳴り響けば、それが前触れ。シャランと鈴音が煌めくや、瞬きするほどの間もなく、白装束の巫女が畦道に降り立って、ひらひらと舞いはじめる。

 闇に踊る白い巫女を、村の男らは熱く欲すると同時に、深く畏れた。

 可憐な姿は上辺だけで、本性は魔であり妖であるに相違ないと思われたからだ。

 夜の山越えは大の男でも命がけだ。女がひとりで通えるものではない。

 人心を乱す魔物は誅さねばならない。そう考えた者の一人に、弓に長けた屈強な若者がいた。あの女妖を成敗してくれようと彼は強く思い定めた。

 間もなく村祭がある。豊年を祈る大事な祭で、宵の口から田の中に舞台を組んで、舞いを奉じる習わしだ。巫女は必ずや現れる、と、若者は鏃を研ぎつつ暗く想った。

 果たして祭の晩、巫女は忽然と舞台に立ち現れて、しなやかに踊りだした。

 田毎の満月よりも眩い、輝かしい舞い姿だった。大方の村人は幻惑され、魅了された。

 弓に矢をつがえた若者も例外ではなかった。

 しかし彼は、巫女に惹かれれば惹かれるほど、熱い殺意が全身に漲るのを覚えた。

 やがて時が満ちると、渾身の一矢を放って、巫女の心の臓を貫いた。

 途端に姿が掻き消えた巫女を、村人は総出で探した。そして、白々と夜が明けた頃になって、水神を祀った葦の陰で、胸を射抜かれて事切れている老いた白狐をようやく発見するに至った。

 水神は田の神であり、狐は稲荷である。巫女はその化身だったのか……。

 田の神に祟られたら飢えて死ぬほかない。村人たちは畏れ慄き、白狐を丁重に葬ると、塚を築いて神戸塚(みこづか)と名付けることで、神の赦しを得んとした――。


 嫁入り谷戸の名は、「弓射り谷戸」が転じたとする説と、名主が江戸の三井家から嫁を迎えたことに由来するという説がある。

 一見、前者と後者は全く異なるようだが、実は共通点があると私は思う。

 その頃の谷戸の小集落にとっては、大財閥・三井家の娘も人外の巫女も、等しく余所者である。

 昔のことだ。他の土地から来る者について、現代とは感じ方が違う。お江戸の中心で生まれ育った三井さまと武蔵国多摩郡鑓水村の村人とでは、言葉の訛りも生活習慣も大きく異なった。

 完全なる異邦人、エトランゼ、エイリアン。なんにせよ、村人たちは自分たちとは異質だと思ったはずだ。巫女も、都会のお嬢さまも。

 余所者は古い村落共同体にとっては異物だ。どんな扱いを受けるか知れない。

 ましてや女は?

 三井家の姫は「嫁」として豪商の家に輿入れしたが、嫁入りからほんの数年で亡くなってしまった。

 白装束の巫女に化けた狐が実在したとは思えないが、基になった出来事があったと仮定した場合は、どうだろう?

 白装束の若い女は、白拍子=遊女に通ずることから、村の男たちから淫靡な視線を浴びせられたことが想像できる。夜毎に舞うという行為も性的な暗喩めいている。

 嫁入り谷戸には、もしかすると仄暗い事実が隠されているのやも……。

 そして怪談実話も伝説の一種と見做したならば、鑓水で同じようにして生まれた伝説は、これだけではないと思われる。

 ――道了堂の堂守殺人。

 ――そして、某大学助教授が愛人を殺害した事件。

 鑓水で起きたこれら二つの出来事から生まれた怪談は、現在もさまざまに語り継がれているが、嫁入り谷戸の伝説を踏まえると、殺された犠牲者たちに、私は共通点を見出さないわけにはいかなかった。

 そう。いずれも殺されたのはエトランゼ。

 余所から来た女だったのだ。


 本題に入る前に――私が子どもだった西暦七〇年代の話をしたいと思う。あの頃、道了堂を含む鑓水地区は、失礼を承知で言ってしまえば、ようするに田舎だった。

 先にも述べたように、鑓水と片倉は隣り合う。道了堂は宅地造成で削られた大塚山の頂上で、うちは大塚山の麓。直線距離にすると三百メートルも離れていない。

 容易に行けて、その癖、道了堂の辺りから先は、私の家や通っていた小学校がある出来立てほやほやの片倉の新興住宅地とは景色が一変するのが面白かった。

 鑓水の集落は、丘の斜面に桑畑が広がり、牛や鶏を飼っている農家が多かった。私が九歳かそこらの時分には、典型的な里山の風景がまだ残っていた。大塚山にはオヤツになる野苺やアケビが自生し、道了堂の周囲では夏にはカブトムシやクワガタが獲れた。廃墟になったお堂は、天然のアスレチックや秘密基地にもなった。

 造成地の隅の廃材置き場で遊んでいても誰にも叱られなかった時代だった。平成、令和と時代が下るに従って、そうした場所は子どもたちから遠ざけられていったが、数十年前まで世間は今より荒々しくて大雑把だったのだ。

 従って廃墟化していた道了堂も、良い遊び場になったわけだ。

 もちろん、道了堂で堂守の老婆が殺されたことは知っていた。幽霊が出るという噂も、今ほど知れ渡っていなかったが、あるにはあった。

 映画『男たちの大和』の原作者で知られる辺見じゅんの『呪われたシルク・ロード』が角川書店から発売されたのは一九七五年。私が片倉に引っ越してくる二年前で、引っ越してきた当時は近所の書店にまだ平積みされていたものだ。さっそく父が買って読んでいたように記憶している。おそらく母も一度は目を通したのではなかろうか。刊行から数年後、中学生になってからだが、私自身、家にあったのを斜め読みした。

 同書には、道了堂の勧進から廃墟化するまでの経緯が詳細に記されていて、当然のこと、堂守の強盗殺人事件についても解説されていたのだ。

 さらに、初版発売の一年前に解決して新聞やテレビで大々的に報道され、その頃は記憶に新しかった、大学助教授による殺人事件についても詳しく書かれていた。

 助教授の事件については一九七三年の秋頃からテレビや全国紙でも散々報じられてきていたから、私の両親などは、本を読む前から知っていた可能性が高い。

 どの家庭でも似たような状況だったと思われ、私たち子どもらは、まずは親から「近所で起きた怖い事件の現場」として、道了堂や鑓水の名前を聞いたわけである。

 次いで、学校の先生や古くから界隈に住んでいた近所の人々によって、この土地にまつわるあれこれが少しずつ明かされていった。

 けれども、子どもだった私が鑓水で怖いと思ったものは、幽霊ではなく、夜の闇だ。

 夜になれば、山は目が潰れたかと思うほどの漆黒に閉ざされる。真っ暗闇をヨタカの叫びが引き裂くと、どこかで遠吠えが応えた。山中に野犬の群れが棲んでいたのだ。

 野犬も、また恐ろしかった。それに、時折、近くの施設から抜け出してきて、絹の道を徘徊している知的障碍者たちにも遭遇したくないと常日頃から思っていた。

 なぜなら、野犬に噛まれた子や、パジャマ姿の怪しい男が歌いながら追いかけてきたと話す子が、身近にいたので。

 ここには記さないが、『呪われたシルク・ロード』には、問題の施設の名称まで載っており、知的障碍者たちとの対話が描かれている。ある意味、自由な時代だったのだ。

 野犬については、保健所が檻を積んだトラックやバンで町中を走りまわって「野犬狩り」に精を出していたことが、私の恐怖に拍車をかけていた。

 引っ越してから一年ほど経って、友人たちと一緒に見知らぬ姉弟と道了堂で行き会ったところ、彼らが姿を消したかと思うと忽然と現れたり、なぜか名乗らず、口数が極端に少なかったりした挙句、友人の内のひとりが堂宇の床を踏み抜いて怪我をした……という出来事を体験した。

 それ以来、私にとっても、ようやくあの辺がちょっぴり怖い場所になった。

 しかし、私が道了堂を心霊スポット、もしくは怪談の現場としてはっきりと認識したのは、稲川淳二さんが「首なし地蔵」を発表した九〇年代以降(「稲川淳二の怖~いお話Vol.1霊界への扉」のCD発売は1996年6月21日)である。

 私が小中学生の頃は、地元の住民にとっては事件の記憶が生々しく、幽霊が出たなどと云々するのは不謹慎に感じられたのではないか……。

 『呪われたシルク・ロード』は硬質なルポルタージュで、鑓水で起きた二つの殺人事件はあくまでも現実の事件として扱われ、登場するのは実在した人物のみだったから七〇年代の地元民でも罪悪感なく読めたが、娯楽的な怪談話だったら、あの辺りの者は皆、眉を顰めたであろうと思う。


 今回、稲川淳二さんの「首なし地蔵」を再録したものを読んでみたら、稲川氏がこの体験談を語る前に道了堂を二回訪れていて、最初に行った時点ですでに堂宇が撤去されていたことや、二度目の訪問のときに眼下に広がる新しい住宅地に初めて気がついたことが確認できた。

 道了堂の建物が取り壊されたのは、一九八三年のことだ。

 山頂から見晴らせる新興住宅地は七〇年代後半には相当完成していたので、一度目の来訪の際には見落としていらっしゃっただけかもしれない。

 そのとき見た住宅街の中に私の家もあったのだと思うと、何やら楽しくなってしまう。

 また、『呪われたシルク・ロード』を参照したところ、稲川氏たち一行が道了堂で見つけた墓というのは、殺された堂守の墓と、生後まもなく亡くなった彼女の長男と長女の墓、それから、可愛がっていた動物たちを葬った「犬猫供養塔」であると推測できる。

 これについては、私自身の記憶とも一致する。

 だが、少し奇妙だ。

 現在は境内跡に整備された墓所があるけれど、道了堂は廃墟だった時期が長い。

 犬猫の墓はともかく、人の、ましてや一応は堂守のお墓を、藪だらけの廃墟に何年間も放置するものだろうか? ましてや道了堂は、母体として、永泉寺という立派なお寺が すぐ近くにある。常識的に考えれば、廃墟化する前に、そちらに移しそうなものだ。

 昔、八王子には埋め墓と参り墓を分ける習慣があった。かつては、家のそばにいったん埋葬した遺体を後に掘り起こし、あらためて寺の墓地に改葬したのだという。

 道了堂は堂守の自宅を兼ねていた。

 だから、まずは住居の裏手に家族を葬ったことは昔の八王子の習慣に則っている。

 けれども、遺族などが墓参りするには不便な山の中ではあるし、通いやすい里の寺院に参り墓を設けた方が良かったと思うのだが……。

 堂守は晩年、永泉寺との関係を酷くこじらせていたそうだから、どうしようもなかったのかもしれない。

 ともあれ、今は市営公園の一部になって、墓所がきちんと管理されているようで幸いだ。

 怪談実話としての「首なし地蔵」には、他にも興味深い点を見つけた。

 稲川氏が発見した「あぐらをかいて、自分の首を抱えている首なし地蔵」というのは、子安地蔵だったのではないか、ということ。

 道了堂の堂宇の手前に座像の子安地蔵が据え置かれており、確か赤子の頭が胸もとにあったから、地蔵の首が落ちたら、あぐらをかいて首(実は赤子の頭)を抱えているように見えるのでは? と、想像した。

 それとは別に座像の鬼子母神像もあったように記憶していて、もしかすると首無し……になったのはそちらかもしれないが、もはや何の証拠もない。

 一方、赤子を抱いた子安地蔵は、現在の道了堂跡にも存在し、首を挿げ替えた痕跡が明らかだ。

 ――稲川淳二作品を含め怪談実話は、主観的な事実を体験者が語ったものだ。

 だから多角的に検証すると、体験者の視点からは見えなかった客観的な事実が掘り出されてくることがある。

 この稿を起こすにあたって、私は『呪われたシルク・ロード』の他に、一九七七年(私たち家族が片倉に来たのと同じ年)に出版された『滅びゆく武蔵野 第二集 ■特集/変貌する多摩丘陵と絹の道』という写真入りのムック本や、『幻の相武電車と南津電車』、八王子市の市政資料室から取り寄せた『八王子の歴史文化 百年の計(八王子市歴史文化基本構想)』や、事件当時の新聞などを改めて参照した。

 さらには、インターネットでも検索し得る限りの関連情報を蒐集し、地元の知人にも協力を要請して、現場取材を助けてもらった。

 その結果、かつて私が『赤い地獄』という本の中で「八王子」と題して道了堂について綴ったときには思い違いしていたことや、今まで知らなかった事実も明らかになった。

 従って、懺悔の念を込めて誤っていた部分を正しつつ、あまり世間でも知られていない事柄をこれから紹介して参りたい。


 まずは、道了堂の件から――。

 殺された堂守の名は、浅井とし。享年八十二(満八十一歳)。一九六三年(昭和三十八年)九月一〇日に自宅を兼ねた堂宇の室内で遺体で発見された。

 死因は失血死と見られ、咽喉と左胸を鋭利な刃物で突き刺されており、遺体の顔と上半身には座布団が被せられていた。

 第一発見者は、としと同居していた中年女性。

 実は、つい最近なのだが、この女性について図らずも新事実を発掘してしまった。

 八王子のご当地怪談実話の本を、竹書房怪談文庫から八月に刊行する予定になっている。そのため、同書の企画が通った二月の頭から、八王子の地元の方々をせっせとインタビューしてきた。

 すると、八王子駅にほど近い市街地で古くから営業している某問屋の係累(当時の経営者の長女)の女性から、こんな話を聴いたのだ。


「浅井としさんの娘と言われている人は、本当はとしさんの姪御さんで、事件当時はうちの従業員でした」


 ――娘ではなく、姪!

 既刊の活字媒体を含め、現在確認できる限りの資料に「浅井としの娘」と書かれており、つい最近まで、私も「娘」なのだと信じ込んでいたのだが、誤りだったのだ。

 そして彼女は、八王子市内の商店を中心に品物を卸している問屋に勤めていた。

「若い頃から長年働いてきてくれて、私の両親とは家族同然の付き合いでした。今も九〇歳を過ぎていますが存命で、道了堂のことを訊かれるのをとても嫌がっています」

 聞けば、高齢になり、村で孤立していた浅井としが、姪を呼び寄せて同居してもらっていたのだという。

 つまり、としには兄弟姉妹がいた。そんな頼み事ができるほどだから、それなりにきちんと親戚づきあいもしていたはずだ。

 当然、としの姪は私生児でもなかった。

「姪御さんは気立ても良くて、真面目な勤め人だったのに、どんな仕事をしていたか中途半端に伏せた上に、父親がわからない私生児で、母親の行状が悪かったために婚約が破談になったとまで書かれたんです。彼女がどれだけ傷ついたか、お察しください……」

 村人がまことしやかに破談の噂をしていた旨を、私も読んだことがある。

 かなり売れた本に書かれていただけに、事実と信じて疑わなかった。


 ――彼女は、勤務先の問屋から帰宅して、変わり果てた母を見つけて警察に通報した。

 山梨県から来た労務者による強盗殺人事件だった。

 強盗と言っても、盗られていたのは、としが境内で売っていた駄菓子の売上金三百円。

 今の相場に照らしても千数百円相当という、わずかな金のために殺されたのだ。

 前述のインタビュイーさんによれば、「犯人は自主したと聞いてます。もしかしたら違って、逮捕されたのかもしれませんが、とにかく、自分からペラペラ自供したんですって」とのこと。

 なぜかというと、こういう事情があったらしい。

 犯人がとしを撲殺したとき、そばに彼女が可愛がっていた猫がいて、室内を物色中に亡骸の方でピチャピチャと変な音がするので、そちらを振り返ったところ、猫がとしの頭の周りにできた血だまりの血を夢中で舐めていた。

 その光景が毎晩夢に出てきて耐えられなくなった――


 しかし、としの姪は、殺したのは顔見知り、つまり村の者に違いないと当初は主張した。

 なぜ、そんなことを言ったのか。……そこに闇がある。


 浅井としは静岡県の農家の出自だが、二十八歳で鑓水に来た。明治時代の農家の娘としては珍しく、そのときまだ独身だったことも、故郷から遠く離れた八王子の山寺に入山することになった原因だろう。だが、鑓水に来ることになった最大の理由は、としが、道了堂の住職の内妻で実質上の管理者だった浅井貞心の姪にあたったことだ。

 叔母の後継者として、としに白羽の矢が立った次第だ。

 浅井貞心は尼僧で、江戸・浅草の花川戸で修業した尼僧だったが、姪っ子のとしが尼だったという記述はどこにもないのだが……。

 貞心は、道了堂が創建されたときから堂守となって、その運営に手腕を発揮、最盛期には茶店三軒が参道に並び、境内は大いに賑わっていたとか。

 一方、としについては、ただ、「若い女行者」で「加持祈祷をよくした」と表現されているに過ぎない。

 『呪われたシルク・ロード』には、明け透けに「たまたま女行者の道を選ばされたとしには、戒律や仏門に帰依する心構えは希薄であった」と書かれている。

 では道了堂自体が仏教寺としてはいい加減な施設だったのかというと、少なくとも体裁は、古くからある鑓水の名刹・永泉寺の別院として整えられていた。

 道了堂の正式名称は、永泉寺別院曹洞宗大塚山大岳寺だ。明治七年(一八七四年)に浅草花川戸から道了尊を勧請したそうだ。

 しかし、先述した永泉寺の住職の内妻・浅井貞心も一緒に花川戸からやってきた次第で、なんとなく生臭さが拭えないのだ。

 そのうえ、鑓水に勧請された経緯には、地元の有力者たちの都合も絡んでいた。

 幕末から明治にかけて、鑓水は「江戸鑓水」と称され、ここから生糸を商う豪商を幾人も誕生した。八王子が「桑都」と呼ばれた時代だった。

 満足に米が採れない谷戸の傾斜地でも、桑と蚕はよく育った。村の娘は製糸と機織に励み、幕末頃に海外で蚕の伝染病が流行して生糸の相場が跳ねあがると、すぐに絹は日本の主要な輸出品になった。そして、鑓水の豪農や名主たちが商才を発揮しだしたのだ。

 武蔵国多摩郡鑓水村から横浜まで街道を行き来する鑓水商人の存在が知られるようになったのは、一八一八年から始まる文政年間(~一八二九年)だという。

 横浜の開港は安政六年(一八五九年)だから、奇妙なことだ。

 もしかすると、生糸の密貿易が行われていたことになりはしないか? 『呪われたシルク・ロード』では、ペリーが来航して横浜開港を迫った理由として、オランダと日本の密貿易ルートが内陸部から横浜まで通じているという情報を得たためだ、と、歴史を覆すような大胆な推理が展開されている。

 ちょっと信じ難いような話だが、明治初期の鑓水にはオランダ商人を顧問に抱えた生糸商が存在したし、横浜開港より前に、谷戸だらけの寒村には似合わない豪商が五人も誕生していたのは紛れもない事実である。

 この生糸・絹織物の運搬ルートが、後に「絹の道」と呼ばれるようになった。

 一九五七年に道了堂の石段の横に「絹の道」と刻まれた石碑が建つまでは、ここは地元では「神奈川往来」、あるいは「神奈川往還」や「浜街道」などと言われていた。

 明治四三年に刊行された『八王子案内』には、子安村(現在の八王子市子安町付近)より片倉村、杉山峠(現在の御殿峠)、相州高座郡橋本村(現在の神奈川県相模原市緑区橋本付近)を経て厚木に至る「厚木往還」が記されており、さらに、この道が片倉村から分岐した「鑓水道了道」の存在が示されている。

 この「鑓水道了道」が、鑓水峠を越えて神奈川県に通じていた――ということは、つまり神奈川往来=絹の道と重複する。

 厚木往還と鑓水道了道=神奈川往来=絹の道の分岐点は、片倉と鑓水の境界にある。

 鑓水商人にとっては正面玄関のような所と言える。

 彼らが休憩するにも集合するにも都合が良く、生糸相場に命を賭ける商人の武運と横浜への旅の安全を祈るのに、ここより適した場所があるだろうか。

 道了堂が片倉と鑓水の境に建てられたことには、わけがあったのだ!

 道の中継地に茶店や宗教施設を設ければ、足を止める者も多い。いずれ評判が広まれば、参拝や物見遊山の客が他郷から集まり、村が潤う。

 だから鑓水の豪商たちは、こぞって道了堂に出資した。

 道了堂が建てられた大塚山の「大塚」というのは、道了堂を寄進した鑓水の豪商の苗字で、この辺り一帯の土地を有していたのは大塚五郎吉、「鑓水の狼」「狼の五郎吉」と呼ばれて恐れられた、冷徹な辣腕商人だったという。


 ――狼の五郎吉をはじめとする鑓水商人たちの栄枯盛衰については、『呪われたシルク・ロード』などで読んでいただくとして、話を浅井としに戻す。


 浅井としは、叔母が逝去してすぐに、道了堂の堂守を継いだ。独身の若い女がひとりぼっちで山奥のお堂を守っていて、どうやら本物の尼さんではないらしい……となると、当然予想されそうなものだが、案の定、男たちが放っておかなかった。

 鑓水の有力者や近隣の寺の住職など、近くに住む男が何人も、道了堂に通ったという。

 その結果、としは父親のわからない子を次々に産んだ。

 最初の子と次の子は乳幼児のうちに死んでしまい、奇しくも関東大震災の最中に生まれた三番目の子どもだけがきちんと育って成人した――この子がとしの遺体を発見した娘だというのが定説だったが、前述したようにこの情報は誤りで、としの実子は二人だけである。

 としが郷里から呼び寄せた姪っ子が、赤ん坊の頃に死んだ子どもと混同された結果、事実誤認が起きたのだ。

 ……とし自身も、同じように叔母の浅井貞心から招き寄せられた姪だったことを思うと、多少因縁めいて感じられる。

 しかし、としとは異なり、叔母の貞心には、鑓水の人々から厚い信頼を集めている古刹・永泉寺の住職という強力な後ろ盾がついていた。

 貞心は住職の戸籍上の妻ではないが、明治初期から中期にかけての内妻は、今時のいわゆる愛人とは違って法的に立場が認められていたし、正真正銘の尼僧でもあった。

 だから姪と同じく「余所から来た女」であっても、誰も悪さを仕掛けなかったのだろう。

 けれども、としは違った。

 当時は、二十八にもなって独り身だと、「わけあり」の女だと見られる時代だった。

 としが小柄な美人だったのも、良くない方へ作用した可能性がある。

 忍んでやってきた男たち全員を、彼女が最初から積極的に歓迎したのか、どうか……。

 もはや誰にもわからないことだ。

 ただ、確かなのは、後年、永泉寺が所有していた道了堂の土地の権利をとしが村長と結託して自分のものに書き換えさせてしまい、永泉寺と永泉寺側についた鑓水の村人たち多数と対立したこと。

 としと村人の土地を巡る対立の底には、私生児を生んだことへの軽蔑や嫌悪、村の秩序に従わない者への警戒感も流れていた。

 永泉寺とは裁判沙汰になり、結局としが勝ったが、彼女は永泉寺に味方した鑓水の村人たちに対して敵意を隠さなかったという。

 としは、したたかに生きた。

 戦時中までは加持祈祷を得意として励んでいたが、老いるに従って参詣客が減った。

 茶店が維持できなくなると、たまに訪れるハイカーに駄菓子を売りはじめ、老いて同居してからは姪っ子の収入も頼りにした。

 晩年のとしは人嫌いで、毎日決まった時間に訪ねてくる郵便配達員と姪としか親しく会話をしなかった。物言わぬ生き物たちを、としは愛でた。犬や猫を何匹も飼っていたほか、境内に棲みついた二羽の野兎や軒に飛んでくる野鳥も餌付けして可愛がり、また、珍しい草木を庭に植えて丹精していたそうだ。

 そして一九六三年の九月十日、いつもの郵便配達員と昼食をとった。

 ……穏やかな、優しいひとときであったことを、としのために願う。

 郵便配達員が立ち去って間もない、昼下がりにとしは殺された。

 日が暮れて、仕事を終えた姪が帰ってくるまで、誰ひとり道了堂を訪れなかった。

 としの姪も村から疎外されていた。鑓水の村人とは。ほとんど没交渉だったそうだ。

 彼女はおばの孤独と悲しみを共有していたに違いない。

 だから、犯人は鑓水の住人に違いないと思い込んだのだ。

 父親のわからない子を生ませ、侮辱しつづけた村である。おばの怨みの深さは如何ばかりか……と肉親であれば同情と共感を覚えるのは、ごく自然なことだ。

 これも今回の取材で初めて知ったことだが、浅井としの葬儀は、姪が喪主となって、道了堂の本堂で執り行われたそうだ。

 襖や障子にとしの鮮血が飛び散った跡が生々しく残り、惨たらしい最期を否が応でも想起させたという。

 姪の雇い主である問屋の経営者夫妻も焼香したそうだが、このありさまに怖気を振るってしまって、ただひたすら早く終わることを願っていたとのことだ。

「みんな青ざめた顔をして帰ってきましたっけ。晩年は貧しかったからでしょう、何十年も畳を換えていなかったみたいで、歩くとズブズブ踵が沈んで気味が悪くて、しかも障子や何かが血痕だらけでしたから、姪御さんには悪いけど、あんなに怖い葬式は二度と御免だと……本当に恐ろしかったと申しておりました」

 参列者は少なかった。問屋の人以外には、事件を担当した警察の捜査関係者と、姪に呼ばれた数人の親戚のみだったようだ。


 そして、浅井としは道了堂に葬られた。

 現在も道了堂跡に、大岳院俊徳貞順大姉というとしの戒名が没年月日や享年と共に刻まれた墓石がある。

 藪の中に打ち捨てられていた時期もあったようだが、今は、獣たちや赤ん坊のうちに死んでしまった子どもらの墓と一緒に、簡素な柵で囲われた新しい墓所に納まっている。


 浅井家の墓を前にすると、私が「八王子」で綴った、女の子とその弟と見える男の子の二人連れの件を、どうしても思い出してしまう。

 あの話を書いたのは六年ぐらい前のことだ。

 そのときは、道了堂の殺人事件から約一〇年後に鑓水で起きた、某大助教授による愛人殺害死体遺棄事件および妻と二児を道連れにした一家心中を想起して、あれは、件の助教授の子どもたちの幽霊なのではないかと思った。

 だからそのように書いてしまったのであるが、これはまるっきり間違った推察だったことを、ここに告白しなければならない。

 まず、あらためて某大助教授の事件について調べたところ、助教授の二児は姉妹で、男児はいなかった。

 さらに、浅井としについて詳しく知ったせいで、当時とは違う推理を立てられるようにもなった。

 もしかすると、彼らは夭逝したとしの子どもたちの霊だったのでは……とか。

 けれども私が遭遇したのは姉と弟。亡くなったとしの子は、長子の卒塔婆に「淳甫童子」、次の子のには「晴江嬰女」と書かれているから、上が男の子(淳甫の読みは「じゅんすけ」か「あつすけ」だろう)で下が女の子でなければ、辻褄が合わない。

 では、としが可愛がった獣たちの魂が、幼い姉弟の姿に化身したのか?

 浅井としは、何匹もの犬猫のみならず、野鳥や野兎たちまで餌付けしていた。その可愛がりようは、自らの亡児二人の墓のそばに彼らの供養塔を建てていたことにも顕著だ。

 同居してくれる姪だけでは埋められなかった心の穴を、獣たちを我が子同然に愛することで埋めていたのだとしたら……?

 獣たちの方でも、その愛に応えようとしたとして、何の不思議があるだろう。

 漫画家の外薗昌也さんも、道了堂で大勢の子どもたちが遊んでいるような声を聞いたとのこと。

 同じ鑓水でも違う場所で起きた別の事件の関係者を、希薄な理由で道了堂の幽霊だとするよりも、動物霊が悪戯したと思う方が無理がないようだ。

▶【後編につづく】


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●川奈まり子 プロフィール

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作家。

『一〇八怪談 鬼姫』『実話奇譚 怨色』『少女奇譚』『少年奇譚』『でる場所』『一〇八怪談 夜叉』『実話奇譚 奈落』『実話奇譚 夜葬』『実話奇譚 呪情』『実話怪談 穢死』『迷家奇譚』『出没地帯』『赤い地獄』など、怪談の著書多数。

日本推理作家協会会員。


●声の出演

藤川弓

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川奈まり子怪談